木本桂春
会員の高田さんが「駒ヶ岳と駒名の山」を掘り起こした全国の駒を今年は登ることにした。記念集会で高田さんが示されたデータでは、90座であり自分が登れていない駒名の山は17座あった。なんとかこれを達成すべく計画を建て、取り組みをスタートした。もう年なので登れないかもしれないが、精一杯挑戦してみることにした。
2020年はいまだ経験したことのない暖冬を経験し、楽な冬を過ごしいる。
1月は関西の京滋の駒名の山として、京都の狛山、滋賀の狛坂山・繖山(きぬがさやま)に登ることにした。
1月27日、日本列島を低気圧が北上。天気は悪いが、意を決して車にスノータイヤを付けて深夜の北陸高速道を走る。石川・福井は冬とは思えない強風雨で時々ハンドルをとられそうになる。名神高速道の多賀SAに2時30分着。仮眠する。
1.京都・狛山
5時30分起床、雨は止んでいたが風が吹いている。
名神高速から京滋バイパスで精華・下狛ICに向かい、山城町・上狛を経て取付の新童子集落の桜峠に7時30分に到着した。
峠周辺は孟宗竹の林で風がごうごうと吹きつけ竹がきしむ。
竹林は荒れ放題
地図を睨みながら頂上へ。そこには水資源開発と標したアンテナがあり、その間に狛山の四等三角点「点名:重谷 標高205.4m」があった。展望なし。
狛山山頂 アンテナ柱の前に三角点
この山は高田さんが「帝国地名地図」「京都府相楽郡誌」「山城町史」「京都名所図会」などを解析され、狛山と同定された山なので、高々、標高205mの吹けば飛ぶよな狛であったが、うれしかった。
帰途、神童寺・天神神社・高麗寺跡を見学する。
2.滋賀県栗東・狛坂山
木津川に沿う163号線を和束の茶畑、信楽の焼き物が並ぶ店を見て、栗東の県民の森から金勝寺に向かう。
狛坂山については以前、白洲政子の「隠れ里」を読んで僅かな記憶があった。金勝山から狛坂摩崖仏の尾根上付近の国見岩付近が狛坂山らしく、金勝寺の奥の院が摩崖仏のある寺跡付近とあったのでこのルートに入る。金勝寺への林道は落葉が敷き詰められ、スリップしそうだ、雪はひとかけらもない、竜王山の近くの駐車場に車を止める。このルートは北峯縦走線と表示されて、明治の地名辞典にあるように「近江全国形勢を望むべし」と或るごとく見晴らしは良い。花崗岩質のため、雨上がりでも全くスリップの気配すらなく歩きやすかった。
駐車場から近江富士
竜王山山頂と三角点
国見岩(狛坂山か)から名神道
狛坂摩崖仏
5-600mの低山ではあるが、前方、左右に巨岩が累々と重なる。黒部、剱岳にはない穏やかな丸みのある花崗岩だ。
国見岩付近から急激に下ると花崗岩に彫られた三尊仏が小さな仏を従えて座していた。おもわず仏に向かい合掌をしていた。
奈良時代後期に渡来系工人による造像とあり。この山の人と神仏のかかわりの深さを知り、狛坂山に感謝し往路を戻る。頭上を吹く強風も心地よかった。
3.滋賀県近江八幡・繖(きぬがさ)山(駒眼)
狛山を下山後、昼飯をしながら考えていた。
「戦乱の歴史をしのぶ湖東随一の名山と城跡」このフレーズには腰が引けていた。高田さんの情報「此山の嶺を駒眼、或は十万嶺、三國嶺、と云う、此処に佐々木氏の城址あり、佐々木山、桑実山」とあった。駒眼を調査してみると馬の目は370度の視野がありとあり、十万嶺、三國嶺に繋がる山頂より近江盆地から四方八方が見渡せる山なのだろうと思った。
今日は戦乱の歴史をたどる気がないので、あっさりと観音正寺の有料道路に入る。上部の駐車場から観音正寺の右手裏道を頂上に向かう。
頂上への桟道
頂上の三角点
繖山(駒眼)頂上からの近江盆地と周辺の山々
頂上からは近江盆地とその周辺が見渡せる、別名、十万嶺・三國嶺・駒眼の山名由来が頷けた。豪族佐々木一族が400年にわたってこの地を支配したのもこの展望あればこその気がした。
頂上から観音寺城本丸跡を通り、山名由来の桑実寺を観て帰ることにする。桑実寺は桑の木をこの地に植え、蚕を育てる術を編み出した発祥の地という、山名のきぬがさの由来に繋がるという。
観音寺城本丸跡の椿
桑実寺のゲート
繖山で見た初めての赤い椿の横から杉林の中のガラ石の急なジグザグ道を下っていく。曇りで杉林の中の暗く寒い道だ。本丸跡に9丁と刻まれた丁石を見て6丁辺りで下方にお寺を見た。しばらくで寺の入り口に立つ、そこには「監視センサー付きゲート」があった。そこを覘いただけで踵をかえして、黙々と来た道を戻った。
登りながら山川草木悉皆成仏と往古からの信者を思い、自然と観光と人の生活を考え歩いた。西国観音巡礼32番札所・観音正寺をそっと通り抜け、下山。
午後5時、琵琶湖際の一般国道を福井に向かう、6時過ぎから激しい雨となり、武生ICから高速に乗る。行動中に降らなかったことに対し狛の神に感謝した。午後10時半、家に到着。運転距離840kmの遠征であった。