木本 桂春
虎谷山の山行を投稿した時、事務局より「虎谷山を地理院地図で検索しても、集落の虎谷しか出てきませんでした。ちなみに「(虎)・・」で検索すると200件くらいヒットしますが山は少なそうです。「似虎谷」は「ねごや」といい、下駒ヶ岳の南西側の谷の一つでした。皆さんも地図上で干支を尋ねては如何でしょうか。というアドバイスをいただきました。
そこで文献などを拾い出し、考察をしてみました。
①虎について、古来より人は強いもの、危険なものとして近よりがたいものとしてとらえていた。
②虎谷山について
国土地理院地図5万分の1地形図「魚津」初版に虎谷山周辺の特長的なことを示す。
16世紀半ばから17世紀にかけて、この周辺は金銀の山「越中七かね山」(4金山、2銀山、Ⅰ鉛山)があった。虎谷山を取り巻く、3カ所に金鉱山があり、掘り出され、金を資力とし加賀の前田・百万石が徳川幕府の外様大名NO1となった。
金山の稼働情報については門外不出で厳しく管理された。松倉金山が最大で慶長年間、版金を多い時で300-500枚/月を産出したという、家数は1,000軒あまりで役人、商人、鉱夫その家族などでにぎわった、寛永年間頃には衰え、同時期に近くの河原波金山も開鉱され家数3.5百軒であったがこれも寛永年間ごろ衰退した。
この後、虎谷鉱山に着手、最盛期には家数5百軒となる、文化年間の頃に家数29軒となり虎谷山周辺の鉱山は約3百年で終焉を迎えた。
金山の状況については口外ご法度で厳しく取り締まられていた。明治時代の5万分の1地図にも山名はなく、三等三角点の記には虎谷山の点名は奥ノ山と記されているが、金山時代はこの山を虎の山として危険の山として知らしめ、人が入らないように「虎谷山」と呼ばせたのではないだろう。
赤印は1月5日の登山。道は集落から雪と薮の斜面を登る。
虎谷山500mから、濁谷山、毛勝三山(釜谷山)
③似虎谷について
この谷は北アルプス朝日岳から日本海に抜ける栂海新道近傍にある。
国土地理院図5万図「泊」初版を示す。ここには犬ヶ岳から似虎谷が大平川へ落ち込む。似虎谷には片仮名でルビが付けられネゴヤと印字されている。
江戸時代に加賀藩・奧山廻役が新潟県境の白鳥山・下駒ヶ岳・犬ヶ岳を巡検していた。その時の拠点が大平村でここから大平川を登り、寺谷、北谷、似虎谷の出合から尾根に取付いた。字駒ヶ岳(昭和6年富山営林署奥山字図記載)付近にねこやと称する小屋掛けした仮縮所を設置して登山した。字駒ヶ岳から犬ヶ岳への谷は脆弱でもろく13百m付近からは尾根へ登らざるを得ない箇所で、私も数度の通過は尾根ににげた。
似虎谷はネゴヤを語呂合せ危険な虎に似た谷として名をつけたのだろう。
年頭の田口会長の「騎虎」の言葉を心に山を歩き続けたい。