藤田 輝己
我が家が建つ場所は相模台地の一角、ここには旧石器時代の石器や礫などが出土した「月見野遺跡群・つきみのいせきぐん」、奈良・平安時代の居住地跡が数多く出土した「上野遺跡・かみのいせき」等の遺跡が数多く存在し、太古の昔より人々が住んでいた形跡が有ります。
人々が生活していく上で必要なもので一番重要なものは「水」だと思います。
今回の散歩はその「水」を得たと思われる「川」を散歩してみたいと思います。
家を出ると、数十メートルで写真のようなダウンアップの道に出ます。
道路標識の箇所からは、急激な下り坂の道になります。
反対側からの写真でも、ダウンアップ。 前方の三角形の山は大山です。
一番低いところは「川」が流れています。名前は「目黒川」今は河川整備化されて暗渠にされており、ここでは川を見ることが出来ますが、この上流では川筋を追うことは所々出来ません。
白い橋梁は東急田園都市線の橋桁です。橋桁手前側からは暗渠化されて、駐車場と道路面との間の境が暗渠部分。
駅前の周辺図でも、「目黒川」(ブルーの色づけ部)は、つきみ野7丁目から暗渠化され、つきみ野1号公園の下を流れています。
今は暗渠化されて小川の様な目黒川も大昔は生活に必要な水をたたえ、時には荒れ狂う洪水となっていた時期があったからこそ、前記の写真のようなダウンアップの河岸段丘を形成し、目黒川右岸の上部部分には旧石器人時代から奈良・平安時代の人たちが、そして現在も私たちが安住の場としている場所です。
月見野遺跡群は上記案内版のつきみ野5丁目周辺が「月見野遺跡群第Ⅰ遺跡」、つきみ野中学校・大和高校周辺が「月見野遺跡群第Ⅱ遺跡」、つきみ野中学校校内に「上野遺跡」が散在しています。
目黒川を中心にして右岸側には遺跡が点在していますが、左岸側には私が知っている限りでは存在していないようです。 理由は分かりませんが、「水道みち」の時に紹介しましたが、神奈川県と東京都の境を流れている、「境川」の存在があるのかも知れません。
月見野遺跡群第Ⅱ遺跡の案内版
旧石器時代の遺跡で、発掘調査では氷河時代の狩人達が残した道具などの石器が数多く発見され、今までの歴史を塗り替える事となる最古の遺跡となったようです。(現:つきみ野中学校敷地)
上野遺跡の案内版。 奈良時代・平安時代の竪穴式住居址が発掘された場所。
発掘調査後は埋め戻して保護保存。(現:つきみ野中学校校内)
目黒川左岸側の分譲地には斜面の傾斜を利用しての地下駐車場を備える住宅が多く有ります。 (つきみ野4丁目周辺)
田園都市線の線路が軽く湾曲している部分が、境川に架かる橋梁部分。
水道みちの導水管も見えます。
境川も今は護岸工事をして洪水被害を防止。もし氾濫しても遊水池を整備して有ります。
遊水池:河川の水が溢れたら、この空き地に川の水を一時的に引き入れる。
広大な遊水池、この隣にももう一つ遊水池が存在
穏やかな流れの境川
境川からの右岸側の傾斜の道、川面からかなり上がります。
数十年前までは境川の河川敷で有った場所が、護岸工事や遊水池併設等の水位調整を行うことにより、今は住宅地に変貌。これも致し方のない事だと思います。
ちなみに、現在の地図でここの写真に使用した部分の標高を調べたところ、目黒川は63.6m、境川は64m、上野遺跡は78.1m、月見野遺跡群Ⅱは約75mの高台に存在している事が分かり、矢張り洪水が発生した場合、水が届かない高台に居住地を作って居たのだろうと思います。
目黒川左岸側に遺跡が無いのは境川との距離が近く、安全な台地(平地)が少ない事も理由かと思います。
目黒川右岸側は、相模川の河岸段丘が現れるまでは、数十㎞の平地が存在することで水害の無い安全な土地で有ると先人達は認識していたのでは無いでしょうか。
余談ですが、我が家を購入するときの重要説明項目の中に、地下室や、地下駐車場の設置は禁忌項目の一つとして存在します。 それは、地中深く掘り下げると必ず遺跡が出てくると言うことで禁止されていることを思い出しました。
地下には旧石器時代なのか?奈良・平安時代なのか?遺跡は有るようです。標高は79.3mでした。