清水川 修
令和3年10月16日~24日、由利本荘市の土谷地区での由理柵発掘調査に三日間参加しました。
埋蔵文化財センターを退職した先生たちや地元の有志による発掘です。みな老人になっても少年の好奇心を失っていない人達ばかりです。
二日目の様子です。最初はまだトレンチの崩落も目立たず溝の中にも入れましたが、期間中は雨が続き、排水と泥の汲み出し作業ばかりで泥だらけになり、くたびれ果てました。
発掘は915年の十和田噴火の火山灰を目安にして泥を少しづず除いて行きます。何か出てくると焼き鳥の竹串を挿して目印にします。
地方新聞『本荘時報』昭和6年6月13日に掲載された記事によれば、大正11年の耕地整理事業の際に払田柵と同様の柵木と見られる木材が深さ5、6尺乃至14、5尺位から多数出土したが、厄介物扱いされ、そのまま埋め戻されたとあり、その柵木を求めての発掘を数年前から実施しています。由利柵は八世紀初頭の庄内地方と秋田城の間に在って秋田城の後衛基地だったと推定されています。