駒ヶ岳ファンクラブ

「駒ヶ岳ファンクラブ」は、日本各地の駒ヶ岳の豊かな自然を愛し、駒ヶ岳山麓の人と交流し、その山麓の文化に親しみ、日本各地の駒ヶ岳に登る」を目的とした会員からなる団体です。

能登地震・1ヵ月と能登の山々

木本 桂春
 1月1日の地震から1カ月過ぎた。
 常日頃、地震関連については関心を持ち、警戒していたつもりであるが、元旦の地震には、今まで通過してきた数々の危機とは全く違った恐怖を思い知った。
 地震から半月後の日記には「一月一日の地震から半月が経過、余震の数も少なく震度も弱くなってきた。しかし、こんなことが時々ある。昨夜も就寝中に余震なのか夢なのか体が揺れて気分が悪くなることがあった。
 一日の短い時間ではあったが、あの恐怖は身体の奥底から離れない。地球生誕から受け継ぐDENに恐怖が離れないのだろう。
 震源地の奥能登から60㎞離れた地に棲むものがこうなのだから、現地の方々の恐怖を思うと心は痛む。

 能登半島地震と山々に関連したことについてまとめてみる。
 話は遠い昔の事。
 伊能忠敬能登半島から富山湾の海岸線を測量に訪れたのは享和3年(1803)7月で、能登半島を測量し越中に入ったのは8月1日であった。この時、忠敬は地震の被災地の能登海岸線を忠実に測量して歩いた。
 能登半島方面からの富山湾の海岸線を測量して北上した。

日本地図を日本海側から見た、環日本海図(富山県作図)を示す。
 赤の×が地震発生の核心部に当たる。  
 ①目川の鼻は私の住む近傍の海岸線の地名である。忠敬がここから観測した、富山湾の対岸・中能登の鷲巣山(現在の千枚田南の小富士山)及び②奥能登の法竜山(現在の宝立山)を観測し、地図上に朱線を描いている。南面には③白馬岳も見ることが出来る。
 海岸線から珠洲市の奥能登立山は数十年間見ているが納得した山様を見たことが無かった。そこで機会があればこの山を登り能登から富山湾越に目川の鼻を観ようと決めていた。

2022年10月2日、早朝に車で珠洲市の奥能登・宝立山に向かう。

 富山湾側の海岸線を珠洲市街に奥能登中央部の珠洲大橋から登山口に着く。家から6時間経過した。
 車から登山道へ向かう。近くの黒峰大権現の祠をお参り、権現もおられない皿2枚。
 近くの宝立山・標高468m・一等三角点・点名;丸山・明治27年設置・ここには戦国時代に城あり。
 日露戦争日本海の見張り台、電波塔などがあったと記載。
 伊能忠敬も60㎞先の目川の鼻から観測した場所であるが今は藪に埋もれて、海も見ることが出来ない。

黒峰大権現の祠

点名:丸山・一等三角点
珠洲・奥能登の地理上の要衝、宝立山は消え入りそうな状態であった、この時は輪島の千枚田に近い小富士山は上らなかった。
 最近の報道によれば最大震度7地震震源地近い、宝立山付近は土砂崩れが目立つエリアとなっている。何百年続いた要衝の地は復活されるのだろうか。
 能登からの帰り道の珠洲市宝立町馬渡、能登町駒渡の字名が生きていた海岸線は住居の多い場所だが、山沿いの穏やかな地形には小川が流れ牧草地が生え、馬が飼育されていたのだろう。その馬力は人々に力を与え、支え続けてくれたのである。現在は乳牛が飼われているが苦戦が続く、頑張れ能登牛と祈るしかない。

能登の駒、馬の地名
 能登は復興に懸命である。正月元旦に自然に襲われ痛めつけられた多くの人がむずかしい復興に取り組んでいる、人々が安泰に住むことのできる野や山へ戻すのは永く遠い時間がかかるだろう。
 私たちは遠くからやさしく支えるしかない。
 駒に与えられた優しい馬力をわずかでも捧げ、宝立山登山能登の駒、馬の地の復興を願うばかりだ。